水月ノート

人の悟りを得る、水に月の宿るがごとし

この世が生きるに値するか、という問い

大学生のとき、仲の良かった女の子がいた。以下Tとする。
Tは真面目な学生だった。授業では一番前に座っている私の隣に座っていた。

卒業旅行で行った温泉旅館の宴会場で、私たちの隣に座ってくれたN教授が、
「君たちは、いつもくっついている」
と言ったのを覚えている。N教授は「君たちは、つきあっているのか」と聞きたかったようだった。
Tが、ハッとした表情で口をつぐんだ。
言い淀んだ空気を察して、N教授は
「いつも一番前の席にいて、僕から距離が近いので、圧迫感を感じる」
と方向転換してくれた。
Tはホッとして笑顔に戻った。
(蛇足だが、こういうときに「ハッと」とか「ホッと」とハ行の音で表現するのは興味深い)

Tはそんなふうに、自信を持って最前列に座る優等生だった。

 

本文と関係ないが、草花一つ、という意味で、「一花」という名前を、女の子につけてみたい

私たちの専攻はフランス文学で、そのN教授の授業でカミュを扱うことがあった。
授業で使っていた教科書は、カミュの作品の中では全く有名ではない『夏』という抒情的なエッセーで、哲学ではなくあくまで文学として扱うものだった(そしてそのような、俗世間から乖離した、時が止まったような授業が、女子学生には人気だった)が、その授業に触発されたのか、Tはカミュの『シーシュポスの神話』を読み始めたようだった。

「ねえ」とTが言った。
「『真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題だ』だって。どう思う?」

生きる価値があるのか、と問うことは、人間にとって自然なことだが、多少不幸なことでもある。
生きていて楽しくて幸せで満足している人間は、そんなことを問わないからだ。
ゲームをする子供が、「こんなゲームをする価値があるのか」と問うとしたら、それはつまりゲームが楽しくないから、価値が見出せないからだ。
生きる意味を見失う経験が、Tにはあったのだろう。
一般に、賢くて真面目な人は、そんな悩みを持つ。生きる意味を見失うというのは、理想と現実の乖離から起こるからだ。賢い人は、理想を思い描く。真面目な人は、その理想に従おうとして苦しむ。
私は、そんな人も好きだ。
まず、質問に答えるより、質問の背景になっている感情について聞いて、理解し、寄り添うべきだったと思う。

それに、そんな話を振ってくれたことは、有り難いことだ。年端のいかない学生たちの間で、いや中高年の社会人でさえ、そんなことを話題にしてくれる人は珍しい。
自分の人生を率直に見つめること、ましてそれを人に話すことは、勇気がいることだからだ。
そんなことが自然にできる人が、どれだけいるのだろう。
人生で、そんな質問を受ける機会は、そう多くない。
そのことに対する感謝を、言葉にして伝えるべきだった。

でも私はそのとき、Tにとって大事だったはずのその問題が、やや幼稚な問いであるように思えた。

私にとって、人生は生きるに値するものではなかった。

それは単に率直な事実であり前提であって、「その上でどう生きるか」だけが問題だった。
自分の人生が、「自分にとって」生きるに値しないものであるなら、他人のために生きていこうと思うのが、唯一の合理的な選択となる。
私は、人生に苦しんでいる人、「人生が生きるに値しない」ように思えている人のために、その人に寄り添って、少しでもその苦しみを軽減してあげられるような人になりたかった。

そしてそのような人生こそ、「生きるに値する」人生に思えた。
逆説的ながら、人生が生きるに値しないものであればこそ、それを変えようと努力する人生が、生きるに値するものとなるのだ。

Tもそんな、苦しみを軽減してあげたい人の一人だった。

Tがどんな悩みを持っているのか、よく知らなかったし、私も自分の悩みをTに話すことはなかったが、同級生の女子4人と食事に行ったとき、Tがとても寂しそうにしていたのを覚えている。
そのとき、他の女子が、Tの隣に座っている私に
「Tさんを抱きしめてあげなよ」
といった。それで初めて、抱擁をした。
しかし私はまだ相手の気持ちを汲み取るスキルが足りなかった。
人が相手にどこまで心を開けるかは、包容力が醸し出す雰囲気によって決まる。十年の経験が一瞬の空気を作る。私はまだ未熟だった。
ただ、私の見たところ、それほど苦しみは深くなさそうだった。なので、優先度は低かった。

人生は小説ではない。
小説では、主人公がそのままヒロインになるが、現実世界では、主人公以外にも数多くの人物が登場して、ヒロインの座を奪っていく。
私は別の人に出会い、結婚した。

大学を卒業して20年ほどした頃、Tに再会したことがあった。
結婚して子供を産んだのであれば、その人が人生を肯定できていることがわかる。
人生が苦行だと思っている人なら、その苦行である人生をわざわざもう一つ作ろうとはしないだろうからだ。

だが、Tはまだ独身だった。
Tの母親は、心配して、
「いい人がいればいいんですけどね... もしかして、独身ですか?」
と私に聞いた。既婚だと答えると残念そうにしていた。
年月を経て田舎教師になったTは、以前のような屈折もなさそうだったが、以前のような澄んだ怜悧さも失われていた。
蚊を一匹殺すのもためらっていた人が、肉食をするようになっていた。「給食があるから、菜食は無理なんだよね」と、少しバツが悪そうに、しかしそれほど良心の痛みを感じている風でもなく、言った。
私は、どうだったのだろう。

人間は、自殺をしながら生きていくのだ。

人生が生きるに値しないのならば、自殺するのが合理的な選択だ、とカミュは考えた。
だがそれは、首をくくるような「肉体の死」だけを意味するのではないだろう。
現実に迎合して、生きる意味を考えずに目の前のことを淡々とこなして生きていく「精神の死」を選ぶ人もいるだろう。

しかしそのように死んだと思っていた精神の骸に、光が差し、その骸を養分として新たな芽が芽吹くこともあるだろう。
生きる価値を、人間は創造することができる、と私は信じている。

この世が生きるに値するか、という問いに、いまのTは何と答えるだろう。