水月ノート

人の悟りを得る、水に月の宿るがごとし

片思いのすゝめ

私は、片思いが好きだ。

バラが咲いていたら、バラを見れて幸せだと思う。
たくさんの人が、そのバラを見る幸福な一瞬を味わえればと思う。
そしてそのバラに、たくさんの人から愛される幸福を願う。
そのバラを摘んで家に持って帰りたいとは思わない。

けれども、世の中には、バラを摘んでいこうとする人がいる。

同時にいろいろな異性とつきあう人というのは、詐欺師であり、サイコパスである人だ。
嘘をつかずに、また相手を傷つけることなしに、複数人とつきあうのは、よほどの事情がない限り、不可能だ。
同時並行の交際は、結婚していなければそれ自体は違法ではない。実際、結婚相談所では複数人とデートして比較検討する。
しかし、長期の交際となると、人間の場合、やはり1対1になるのが自然だ。
チンパンジーなど他の霊長類であれば、必ずしも1対1でなくてもよい。
でも人間の場合は、頭が大きい。
頭が大きくなるまで、子供が大人になるまでの成長期間が長い。
その育児期間、父親の協力を必要とするために、番いになる。
(「あの子は顔が小さく見えるね、うらやましい」と思うことがあるかもしれないが、人間である以上、チンパンジーに比べればずっと顔の比率が大きいわけだ)
このため、人類は1対1の番いをなす。それが嫌なら、チンパンジーのように頭を小さくするしかない。
ほとんどの人にとって、結婚相手は、生涯にただ一人きりだ。
これは非常に強い束縛条件だ。

人類がそうであるのは、子供の養育のために番いが必要だからで、子供がいなければ関係ない、という意見もあるだろう。
そう思う人にとっては、それでよい。
でも、哺乳類は、子供の養育のために最適化されてきた。
子供がいなくなっても、死ぬまで1対1でいたい、別れるのはさびしい、そう思うのが人情というものだ。人情、つまり、生得的なシステムだ。変えるのは難しい。
やはり、ほとんどの人にとって、結婚相手は生涯にただ一人きりだ。

しかしながら、片思いについては、そのような制限はない。
いろいろな異性に、同時並行的に片思いをしても、なんら問題ない。
養育問題は発生しない。責任をとらなくてよい。
異性だけでなくてもよい。同性でも問題ない。動物でも、植物でもよい。
バラにはバラの、アジサイにはアジサイの、スミレにはスミレの良さがある。
何人いてもよい。嘘をつく必要もない。誰も傷つけることがない。
考えるだけなら自由だ。
法的にも同時並行片思いの権利が保障されている。
「思考および感情の自由は、これを侵害されない」(憲法第19条意訳。原文:「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」)

交際や、結婚なら、相手の同意が必要だ。
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する」(憲法第24条)
年齢や容貌等の条件が悪いと、相手を見つけるのに苦労するかもしれない。
「お金持ちでもないオジさんオバさんなら、現実を見ないといけませんよ」と、結婚相談所で年下の相談員に諭される。
若い美人の周りには、飛び立った女王蜂に群がるオス蜂の雲のように、男性が群がる。
人生は不平等だ。心が痛む。

でも、片思いなら、老若男女誰でもできる。差別もされない。
「わたし、片思いは、未経験で...(ポッ)」などと恥ずかしがることもこともない。
誰もが堂々としていていい。
平等で、対等なのだ。
片思いは、人の上に人を造らず、人の下に人を造らない。

好きな相手との思い出を思い返して、「あのときこうすればよかった」とか、脳内で反省したり妄想したりするのは、楽しいものだ。
そんな一人反省会をしていると、次にその相手にあった時に、もっとやさしくできる。ような気がする。何の関心もないより、ずっといい。
みんなに、少しずつ、関心を持つこと。
片思いは博愛でもある。

自由、平等、博愛。
なんだか革命のようになってきた。名付けて、片思い革命。

フランスでは、革命のあと、ロマン派の時代がやってきた。
頭の中であっても、複数人なんて、不純だ。一途に、一人だけを思い続けるのが、純粋な恋だ。ロマン派の詩人なら、そう思うかもしれない。
でも、トマトが好きな人が、「自分はトマトが好きなのだから、毎日トマトだけを食べ続けるべきだ」と考えるとしたら、不純だと思うだろうか?
人生を損している、と思うだけだろう。
それに、不健康でもある。
19世紀に一世を風靡したロマン派の詩人は、みな死んでしまった。栄養不足だったのかもしれない。

カポナータは、簡単に作れて美味しい

まあ、トマトは確かに美味しい。最高の食材、といっても過言ではない。
人生で二度と、トマトのような存在にはめぐりあえないかもしれない。
トマトに惚れ込む人がいても、その気持ちはわかる。

でも、タマネギだって、私は好きだ。
「僕なんかは、トマトさんのような華やかな魅力のない、目立たない引き立て役に過ぎませんけど」とタマネギが謙遜する。「でも僕には、僕にしかできない特技があります」
「特技?」とトマトが聞き返す。
「僕は、炒めつけられれば炒めつけられるほど、コクを出せるんです。僕は、引き立て役のプロなんです」
「メイラード反応のことね。いわれてみると、トマトのあたしには特技とかないかも。あるのはせいぜいリコピンだけ」
「それできれいな赤い色してるんですよね。憧れます。お肌もみずみずしいですし」
「あたし、90%が水なんだって。水太りかな、恥ずかしい」
「いえ、ピチピチしてて素敵です。僕もトマトさんみたいになりたかった。でも、トマトさんの持ち味にコクをつけてあげられるだけで、満足です」
「タマネギ... いつもありがとう。あたしの、ダシに、なってくれる?」
「トマトさんのためなら...」涙が出る、タマネギを包丁で切ると。「僕はみじん切りにだって喜んでなります」
刻みニンニク「こんにちは」

ニンニク、タマネギ、トマト。華麗な組み合わせだ。カレーにも合う。
トマトだけ考えればいいというものではないのだ。組み合わせがあることで、トマトの魅力がいっそう引き出される。
アボカド、トマト、レモン。
ナス、トマト、チーズ。
トマトの交際範囲は、広い。トマトは交際相手ごとに、別の顔を見せる。
主役にも脇役にもなれる。甘くも酸っぱくもなる。
トマトだけ食べていても、トマトを知ったとはいえない。
真にトマトを愛するのならば、トマト以外も愛せなければならない。

「でもやっぱり、わたしは抵抗あるな」という人もいるだろう。「1対1でない片思いって、たとえば、彼氏とか夫が他の女の子に関心を持つってことでしょ? そんなの考えるだけでも嫌だし、気持ち悪い」
その気持ちも、よく理解できる。子を産む母となりうる女性にとって、父親の協力を長期にわたって頼れるかは、死活問題だ。女性には、男性が他の女性に関心を向けるかどうかを、敏感に察知して忌避するシステムが、本能的に組み込まれている。
自由や博愛なんて、本能という台風に消し飛ぶ蝋燭の炎にすぎない。束縛と独占こそが、種の保存のために必要な条件だ。
体だけでなく、心まで、独占すべきだ。
自分の独占欲のために、相手の自由は侵害されなければならない。
「国王の裁判などする必要はない。ただ殺すべきものだ」と、サン=ジュストルイ16世の裁判で処女演説を行った。
男性の勝手な思いなど、聞いてあげる必要はない。ただ殺すべきものだ。存在自体が罪だ。

性的な部分は、許容できなくて当然だ。例外はあるにせよ。
では性的な部分とはなにか。相手と性的に関わろうとする欲求のことだ。
この欲求を捨てたときに何が起こるか。
相手と関わろうとしないこと。自分の心の中だけに留めておこうとすること。
その状態がつまり、片思いだ。
親や子、兄弟、友人、同僚、取引先。生活の中で出会う人、関わる人に配慮し、相手のこと、相手の役に立つことを考える。
そこには男性も女性もない。自己を無にした思いは、性を超越する。
そんなことを言ってみたところで、安心が得られるかはわからないが。

理論的には、まあ、そのようなものだ、と思う。
とはいえ、人生がいつも理論通りに進むとは限らない。

大学生のころ、長いこと、片思いをしていた。
同時並行なんて、器用なことはできなかった。その人に会った後では、他の人が目に入らなくなった。
自己を無にもできなかった。相手と関係を深めたい気持ちが出てきて、その気持ちを殺すのに苦しんだ。
でも私には手の届かない人だった。

片思いなんて、好きではなかった! ただ当惑するばかりで、恥ずかしかった...。

私にとっては、片思いというのは、相手が魅力的だからするものではない。
相手が自分に優しくしてくれるから、人間として接してくれるから、気持ちが芽生えるのだ。餌をくれる人に尻尾を振ってなつく犬と、大差ない。
他の人が目に入らなくなったというのは、そんなふうに優しくしてくれる人がいないことに気づいた、というだけにすぎない。軽薄な人間関係しかなかったわけだ。

アルバイト先のバーで知り合った、受付の女性だった。Sさんといった。(以下敬称略)
受付は離れた場所にあったので、仕事中はSとあまり話すことはなかった。たまに、休憩時間が重なったとき、休憩室でおしゃべりするくらいだった。
目を引く美人だった。芸能人かと思った。自分とは縁がないな、と思った。雲の上の人に見えた。
年齢も4歳年上だった。自分が子供に思えた。

Sとは、仕事のあと帰る方向が同じだった。
偶然帰宅時間が重なると、途中まで地下鉄2駅分、一緒に帰った。
しだいに、そんな偶然が起こるのを楽しみにするようになった。
休憩室に貼ってあるシフト表を見て、Sの出勤日を確認した。

ある日、夜の11時半に仕事が終わって、一緒に帰るとき、Sが「これから、遊びに行かない?」と誘ってくれた。
Sは青山のクラブ(ディスコテック)が好きだった。看板もない店だった。ネットもない時代、どうやって知るのか、人がたくさん集まっていた。有名な人がDJをしていた。こんな世界があるのかと思って、びっくりした。
朝まで過ごした。
自分の知らない世界を教えてくれる異性というのは、蠱惑的なものだ。

バーでは、S以外の従業員は、すべて男性だった。
私以外はみな、女性経験が豊富だった。詐欺師でありサイコパスであるような人もいた。
みんな、Sには丁寧に接していたし、Sもよく笑っていた。
でもSは、誰にも心を開いていないように見えた。
遊びに行くのは私だけだった。
私だけが、Sの好きな世界、住んでいる世界を、理解できた。絵画や音楽など、芸術の話をよくした。
Sが私を特別扱いしてくれていると錯覚して、Sに夢中になっていった。

まあ、Sは確かに魅力的だった。それまで出会った中で、最高の女性、といっても過言ではなかった。(単に出会いが少なかっただけでもある)
感性が鋭敏で、独特な世界観をもっていた。空気が違っていた。
人生で二度と、Sのような存在にはめぐりあえない、と思った。
Sに惚れ込む人は多かったと思う。その気持ちはわかる。

Sと遊びに行く時、地下鉄で隣の席に座るだけでときめいた。
見知らぬ人に毎日している日常の行為でさえ、相手がSであるというだけで特別な意味を持った。
その気持ちを、そのまま言葉にして伝えることは、大事なことだ。でも当時はできなかった。
人からの好意は、どんな人からのものであっても嬉しいものだということ、見返りを求めないものである限り一切迷惑にはならないということを、今の私は知っている。当時は、知らなかった。

Sは、何人か自分の友達にも、私を紹介してくれた。女性だけでなく、男性もいた。男の友達が気安くSに話しかけるのを見ると、嫉妬した。
Sの交際範囲は、私より広かった(私が狭かっただけだが)。交際相手ごとに、別の顔を見せた。甘くも酸っぱくもなった。

しかしながら、Sとの仲は、それ以上発展しなかった。
いつまでたっても距離は縮まらなかった。
バーの先輩が、私がなぜSとつきあわないのか、と不思議そうに聞いた。
いや、私なんかは、Sのような華やかな魅力のない、目立たない引き立て役に過ぎなかった!
私は、自分が子供だから、男性扱いされないのだ...と思った。
Sが私にとって魅力的な女性であったように、私もSにとって魅力的な男性になりたかった。
Sが私に知らない世界を教えてくれたように、私もSに知らない世界を教えてあげられる人になりたかった。
成長したい、と思った。
自分なりに努力した。

努力と成長を促すところが、片思いの利点だ。
私は、自分の思いが実らないことを知っていて、あきらめていた。
でもその思いを無駄に廃棄するのは、もったいなかった。
成長の原動力として、エネルギーを再利用したかった。
燃焼熱を回収して再利用することを、サーマルリサイクルという。
熱には、恋の燃焼熱も含まれる。

好きな人と、すぐ交際できた幸福な人は、そんな気持ちが理解できないだろう。
相手のレベルに必死になって追いつきたいという強烈なエネルギーは、片思いならではのものだ。
好きな人と、交際できないというのは、幸運な経験なのかもしれない。
幸福と幸運とは一致しない。むしろ逆だ。不幸こそが幸運の鍵だ。

バーに、もう一人女性が入ってきた。Tといった。Sと同年齢だった。Tは、すぐにSの友達になった。
TはSと違って受付ではなく、私と同じフロアで働いていた。
Tは、小説を書いていた。よく、文学の話をした。

ある日、Tが私に「デートしようよ」と言った。
お客さんが入る前とはいえ、勤務時間中にそんな誘いを受ける機会は滅多にない。
「はい、かしこまりました」と、マニュアル通りに答えた。
銀座でデートした。

Sへの片思いは、やはり、苦しかった。
相手が自分を好きになるというのは、自分を心から受け入れ、認めてくれる、ということだ。
好きな人に認められない自分を、自分で認めることができなかった。
自分が成長すれば状況が変わるという見込みもなかった。
Sに告白する男性は多かったが、Sはすべて断っていた。
Sは、男性との交際自体を拒否していた。
独身で生きる覚悟を決めていた。
私の努力など、何の意味もなかった。

そのときの経験があって、片思いに苦しむ人の気持ちを、よく理解できる。
人間として受け入れ、認めるということと、その人を唯一の排他的な交際相手として選択する、というのは、別のことだ。
しかし、交際を拒否された方は、人間としての存在全体を否定されたように感じてしまうことがある。
男女交際は一人としかできないから、拒否するのは何の問題もない。
でも、人間として受け入れるのは、相手の告白と何の関係もなく継続できるようでありたい。
人間として受け入れるぶんには、同時並行的に、何人を受け入れても、なんら問題がない。
そこを区別できるのが、大人だと思う。
大人というのは、配慮できる人のことだ。
Sは、そこまで大人ではなかった。
私よりは余程大人だったが、それでもまだ若かったのだ。
そのおかげで、私は苦しみを味わうことができた。
タマネギは、炒めつけられると、コクが出る。
片思いの最大の利点は、人の心の痛みがわかる人になることだ。

そんなとき、Tと会うのは癒しになった。
Tは自分から誘ってきたのだから、私を好きなのだ、と錯覚した。
女性のほうからデートを申し込んでくれたのだから、男性のほうから正式な交際を申し込まなければならない、と勝手に思いこんだ。
Sとは直接交際できなくても、友達ではいたかった。バイトを辞めた後で関係が消えるのはさびしかった。Tと交際していれば、交際相手の友達として、関係が維持できるのではないかと思った。

それで、Tと夜お酒を飲みに行ったとき、交際を申し込んでみた。その場で振られた。

自分の勝手な思いなど、聞いてあげる必要はない。ただ殺すべきものだ。存在自体が罪だ。

その夜遅く、Sから電話があった。「Tから、話を聞いたよ」といって、なぐさめてくれた。
私は、自信を失っていた。自分の考えがすべて浅はかで愚かに思えた。恥ずかしかった。Sとうまく話せなくなった。

若いうちは、経験が足りないから、誤った考えを持つものだけれども、それを恥ずかしがる必要はない。
間違った考えを持つことが愚かなのではない、間違った考えを恥ずかしがって隠そうとするのが愚かなのだ。
隠すことで、助言を受ける機会を失う。
それに、恥ずかしい間違いを話すことで、親しくなることがある。黒歴史として封印すると、そんな機会も失う。

Tに限らず、いろいろな出会いがあったが、どの人にも真剣になれず、うまくいかなかった。
心の片隅には、いつもSがいた。あきらめきれていなかった。
完全に振られたあと、妻に出会った。
Sに出会えていなかったら、妻にも出会えていなかった。感謝している。

Sを通して、いろいろなことを学んだ。
Sがいなかったら、私はもっと高慢な人になっていたかもしれない。
自己努力を、それほどしなかったかもしれない。
人の心の痛みを、それほどわからなかったかもしれない。

片思いを通して、私はやさしい人になれた。
生活の中で出会う人、関わる人に配慮し、相手のこと、相手の役に立つことを考えられるようになった。
みんなに、少しずつ、関心を持てるようになった。
バラにはバラの、アジサイにはアジサイの、スミレにはスミレの良さがあるのだ。

私は、そんなささやかな片思いが好きだ。