愛してる、セックスしよう
遺跡の奥は、林になっていた。
林には小道があり、その入り口に、少女が立っていた。
しばらく、見つめ合った。数秒だったかもしれない。
少女が、「うちに来る?」と、手招きをした。
私にとって、大事な人が誰か、というのは、非常にシンプルだ。
私を大事にしてくれる人、それが私の大事な人だ。
私に関心のない人に対しては、私も関心がない。
では、私を大事にしてくれる人とは、どういう人なのか。
それはシンプルではない。共通点がある気がする。しかし明瞭ではない。
「純粋な人」ではないか、と思っていた。
「純粋な人」かどうかは、初めて会った時に一瞬で判断できる。
しかし判断基準や根拠はよくわからない。
それで「純粋な人」の本質は何か、興味があった。
大学生の頃、チュニジアに旅行に行った。
チュニジアの北には地中海に面したギリシア風の街並みがあり、中部にはローマ時代の遺跡があり、南部にはサハラ砂漠が広がっている。
北アフリカ料理のクスクスも有名だが、なによりパンとオリーブオイルがおいしい。
オリーブオイルが健康にいいからと、飲む人までいる。
いまでも、憧れの土地だ。
首都チュニスは、北緯36度、東京と同じだ。アフリカとはいえ、それほど暑くない。
チュニスに着いてすぐ、腕時計を盗まれた。
カフェで話しかけてきた背の高い男性が、おしゃべりした後、時計を見たいと言った。
通常ならありえない話だが、なぜかそのときは腕時計を外して渡してしまった。もちろん、返してくれなかった。
そういうときは、大声で叫んで助けを求めるべきだ。注目を集めれば、悪人は逃げられない。
でもショックがあると、頭が真っ白になって、適切な行動がとれなくなるものだ。
私は大声を出せずに、そのまま諦めてしまった。
痴漢に遭っても抵抗できない、という話を耳にすることがあると、私はこのときの何もできなかった自分を思い出す。
そんなことがあって、チュニスが嫌になってすぐ南に移動した。
スターウォーズのロケ地となったことで有名なマトマタに行くと、穴居住宅がホテルになっていて、宿泊することができる。旅行に来た!という気分を味わえる。
散歩していると、クスクスを石臼で挽いているおばさんがいた。珍しいので立ち止まって眺めていると、見学料金を求められたので、走って逃げた。別の意味で、旅行に来た!という気分を味わえた。
ベルベル人の穴居住宅も興味深いが、チュニジアといえばやはりサハラ砂漠だ。
現地の人は、観光客がなんでサハラに行きたがるのか、と不思議がる。「何もないのに」と言う。サハラとは「何もない」という意味だ。
サハラ砂漠の入り口、ドゥーズまで行くと、ラクダに乗るツアーがあった。ガイドの人が、砂漠の中で、晩御飯にパンを焼いてくれたのが格別においしかった。夜、地平線上に光る街明かりを見ながら、砂の上で寝た。
ガイドの人は英語が話せなかったので、ツアーで同行したシカゴ出身の学生に、フランス語の簡単な通訳をしてあげた。静まり返った暗闇の中で、シカゴジャズの話を聞いた。
地球に生きている、と思った。
フランスの詩人のことを聞かれたので、アルチュール・ランボーが詩の世界から離れて北アフリカに渡った話をした。学生は、でもランボーは好きではない、と答えた。好きでない理由は、聞かなくてもわかる気がした。
スファックスから乗った帰りの電車では、隣に座った青年とおしゃべりをした。
チュニジア人のほとんどはイスラム教徒だが、99%の人は、イスラム教を信じていないと思う、と言っていた。宗教と政治が腐敗していて、失業率が高く、若者の生活が苦しい、と説明してくれた。真面目で、好感がもてた。だんだんチュニジアが好きになってきた。
再び戻ったチュニスでは、日本人にも会った。
地中海で獲れた魚を、冷凍して日本に輸出する仕事をしている人だった。
家に泊めてもらった。一人暮らしなのに、2家族くらい住めそうなほど広い家に住んでいた。
こんなところでこんな暮らしをしている人もいるのか、と衝撃を受けた。
こんな異国の地に暮らす経験ができて、うらやましい、と思った。
しかしながら本人は、チュニジアの暮らしに飽きて、一人暮らしもさびしく、早く日本に帰りたい、と愚痴をこぼした。
現地で友人がいても、母国語で理解しあえる深さには及ばない。
さびしい気持ちもよく理解できた。けれども、一度はそんな暮らしをしてみたい、とも思った。
チュニスで腕時計を奪った男性や、マトマタで見学料を要求したおばさんにとって、私は食べるべき餌に過ぎなかった。
砂漠に同行したシカゴの学生や、スファックスの偽ムスリム、チュニスの独身貴族は、私欲なく、私といる時間を大事にしてくれた。「純粋な人」だった。
そして最後に、カルタゴに行った。
古代ローマ時代のアントニヌス浴場という遺跡を見て回った。
遺跡の奥は、林になっていた。
林には小道があり、その入り口に、少女が立っていた。
しばらく、見つめ合った。数秒だったかもしれない。
少女が、「うちに来る?」と、手招きをした。
小道を歩いて林を抜けると、家があった。
少女の名前は、覚えていない。Cとしよう。年は、18歳くらいだった。
家に着くと、Cの母親が出迎えてくれて、クスクスを作ってくれる、と言った。
レストランなのかな?と思った。レストランではなかった。
なら、竜宮城?と思った。竜宮城、だったかもしれない。
「ハリッサを、入れる?」と母親に聞かれた。ハリッサというのは、唐辛子で作る調味料のことだ。クスクスの辛さを調整するのに使う。
食事を作っている間、Cが自分の部屋を案内してくれた。
簡素な家だったが、小さいながらも自分の部屋があった。
部屋に、空手のポスターが貼ってあった。空手を習っている、と言った。
Cの兄が帰ってきて、一緒に食事をした。兄は、妹をどう思うか、と聞いた。
かわいい、と答えると、満足そうにしていた。たぶん、自慢の妹だったのだろう。
Cが、フランス語の勉強の話をしたので、そのとき持っていたボードレールの詩集を見せてあげた。
表紙に、女の人のヌードが描かれていた。
Cが「これは?」と尋ねた。
私は、18世紀の詩集だ、と説明しようとして(本当は19世紀だ)
「Dix-huitième siècle(18世紀)」と言ったが、よく聞き取れなかったようで、Cは
「Je t'aime, sex(愛してる、セックスしよう)って言ったの?」と恥ずかしそうに、少し期待を込めた目で見つめながら、聞き返した。
ドギマギした。
Cの母親と、遺跡に行って散歩した。
遺跡に来る観光客相手に、お土産を売る商売をしていた。ブレスレットなどを見せてくれた。
ガイドがついている団体観光客には、そういう商売は難しい。個人観光客がターゲットだが、個人で来る人は少ない。
生活が苦しい、少し援助してほしい、と言った。
なるほど、と思った。大きな金額を要求されるかもしれないと思って、緊張した。
いくら要るのか、と聞いた。
母親の口にした金額は、レストランで食べるクスクスの代金より少ない額だった!
私は親切な人を疑ったことを恥じた。
いくらあげても惜しくなかったが、貧乏学生で、あまりお金が残っていなかったので、母親の言う額より少し多い金額しかあげられなかった。
これくらいだったら、がっかりさせるかも、と思った。
それでも、とても喜んでくれた...!
私は再び、相手を疑ったことを恥じた...。
実は、「純粋な人」とは、人の性格とか考え方など、人に属する何かなのではない。
自分と相手との関係性である。
Cの母親も、観光客にお土産を売るときは、お客さんとして接するしかないだろう。でないと商売ができない。
私は、娘の連れてきた人だったので、家族のように接してくれたのだろう。
同じ人が、家族には自分の一部のように接し、お客さんには他人として接する。
自分の一部のように接してくれるとき、その人が「純粋な人」に見える。
母親は、私を見て「イタリア人とか、フランス人とか、日本人とか、ヨーロッパの人は、ハンサムだ」と言った。
ヨーロッパ人というのは、彼女にとって、「海の向こうからやってくる人たち」という感じなのかな、と思った。
ヨーロッパとアジアを区別できない知識レベルだと、観光ガイドは難しい。それでも、よく子供たちを立派に育てたものだ、と感心した。
観光客として出会ったフランス人から、帰国後に送ってもらった、という絵葉書を見せてもらった。
絵葉書の住所に出せば、届くから、きっと手紙を書いてね、と何度も念を押された。
夜になった。
観光ガイドをしているCの叔父が帰ってきて、屋外の簡易テーブルで一緒にワインとチーズをいただいた。
家のある場所は高台になっていて、眼下に海が見下ろせた。夜景がきれいだった。
経済的には貧しい家だったかもしれない。でも、なんと豊かなのだろう、と思った。
こんな家に、住みたいと思った。
もちろん、現実的な話ではない。そこでは私のできる仕事がないことは、わかっていた。
Cと母親が、「泊まっていってよ」と誘ってくれた。
残念なことに、その日は最後の日だった!
夜中に出発する飛行機の時間が迫っていて、帰らなければならなかった!
お別れを告げると、Cはもう一度自分の部屋に連れて行ってくれた。
Cが「キスして」と言って、口を出して、目を閉じた。
キスをして、抱きしめた。私にとって、たぶん初めてのキスだった。Cにとっても初めてだったかどうかは、知らない。
そんな風に、つきあう前の女性からキスをせがまれたのは、このときと、あともう一回しかない。
Cはどうして、そんなにすぐに私を気に入ったのだろうか、と思う。
しかし同時に、そんなことは何の疑問でもない、とも思う。
人が誰かを気に入るとき、誰かを自分の一部のように感じるとき、誰かの前で「純粋な人」になるとき、そこに時間は必要ない。
初対面であっても、話せばほぼ一瞬で判断できる。
それはなぜか。
Cは何かしら、自分に似たものを、私の中に見出したのだと思う。
自分にあるもの、自分の一部が、相手の中にあるから、相手を自分の一部のように感じるのだろう。
私は、Cに似ていたのだ。
Cにとって、その似ている部分がどこだったかのを、言葉にするのは難しい。
けれども、それはCにとって自分の中にあるもの、自分のよく知っているものだから、それを相手が持っているときに敏感に察知し、一瞬で識別することができたのだろう。
そしてCが識別した私との共通点は、私が識別したCとの共通点でもある。
私も、Cとの似た部分がどこかを、言葉にするのは難しい。でも、認識できる。
私にとって、誰かが「純粋な人」に映るとしたら、その人にとっても、私が「純粋な人」に映っていることだろう。そしてその人は、私によく似た人なのだろう。
似たところのない人、相手を自分の一部のように感じることがない人に対しては、共感することもないから、情報交換の相手になれるのがせいぜいなのだろう。
Cも、Cの母親も、私にとっては純粋な人だった。その純粋さを、見習いたいと思った。
家のある高台から歩いて大通りに出て、空港に向かうためタクシーを拾った。
窓越しに、母親が「手紙を書いて。また、遊びに来て」と言って、頬にキスしてくれた。
日本に帰った後、手紙を書いた。
返事はなかった。
チュニジアは遠かった。Cに再び会うことはなかった。
ほんの少し、状況が違っていたら、この人と結婚していたかもしれないな、と思う出会いがいくつかあった。
Cはそのうちのひとりだ。
もし、あの日が最後の日でなかったら。
あるいはもし、もう一度チュニジアに行っていたら。
Cと結婚し、チュニスに住んで、魚を日本に輸出する仕事を引き継いでいたかもしれない。
そして週末になると、カルタゴの高台に行って、夜の海を見ながらワインを飲んでいたかもしれない。
チュニジアは、パンとオリーブオイルがおいしい。ワインとチーズもおいしい。
チュニジアはいまでも、憧れの土地だ。
片思いのすゝめ
私は、片思いが好きだ。
バラが咲いていたら、バラを見れて幸せだと思う。
たくさんの人が、そのバラを見る幸福な一瞬を味わえればと思う。
そしてそのバラに、たくさんの人から愛される幸福を願う。
そのバラを摘んで家に持って帰りたいとは思わない。
けれども、世の中には、バラを摘んでいこうとする人がいる。
同時にいろいろな異性とつきあう人というのは、詐欺師であり、サイコパスである人だ。
嘘をつかずに、また相手を傷つけることなしに、複数人とつきあうのは、よほどの事情がない限り、不可能だ。
同時並行の交際は、結婚していなければそれ自体は違法ではない。実際、結婚相談所では複数人とデートして比較検討する。
しかし、長期の交際となると、人間の場合、やはり1対1になるのが自然だ。
チンパンジーなど他の霊長類であれば、必ずしも1対1でなくてもよい。
でも人間の場合は、頭が大きい。
頭が大きくなるまで、子供が大人になるまでの成長期間が長い。
その育児期間、父親の協力を必要とするために、番いになる。
(「あの子は顔が小さく見えるね、うらやましい」と思うことがあるかもしれないが、人間である以上、チンパンジーに比べればずっと顔の比率が大きいわけだ)
このため、人類は1対1の番いをなす。それが嫌なら、チンパンジーのように頭を小さくするしかない。
ほとんどの人にとって、結婚相手は、生涯にただ一人きりだ。
これは非常に強い束縛条件だ。
人類がそうであるのは、子供の養育のために番いが必要だからで、子供がいなければ関係ない、という意見もあるだろう。
そう思う人にとっては、それでよい。
でも、哺乳類は、子供の養育のために最適化されてきた。
子供がいなくなっても、死ぬまで1対1でいたい、別れるのはさびしい、そう思うのが人情というものだ。人情、つまり、生得的なシステムだ。変えるのは難しい。
やはり、ほとんどの人にとって、結婚相手は生涯にただ一人きりだ。
しかしながら、片思いについては、そのような制限はない。
いろいろな異性に、同時並行的に片思いをしても、なんら問題ない。
養育問題は発生しない。責任をとらなくてよい。
異性だけでなくてもよい。同性でも問題ない。動物でも、植物でもよい。
バラにはバラの、アジサイにはアジサイの、スミレにはスミレの良さがある。
何人いてもよい。嘘をつく必要もない。誰も傷つけることがない。
考えるだけなら自由だ。
法的にも同時並行片思いの権利が保障されている。
「思考および感情の自由は、これを侵害されない」(憲法第19条意訳。原文:「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」)
交際や、結婚なら、相手の同意が必要だ。
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する」(憲法第24条)
年齢や容貌等の条件が悪いと、相手を見つけるのに苦労するかもしれない。
「お金持ちでもないオジさんオバさんなら、現実を見ないといけませんよ」と、結婚相談所で年下の相談員に諭される。
若い美人の周りには、飛び立った女王蜂に群がるオス蜂の雲のように、男性が群がる。
人生は不平等だ。心が痛む。
でも、片思いなら、老若男女誰でもできる。差別もされない。
「わたし、片思いは、未経験で...(ポッ)」などと恥ずかしがることもこともない。
誰もが堂々としていていい。
平等で、対等なのだ。
片思いは、人の上に人を造らず、人の下に人を造らない。
好きな相手との思い出を思い返して、「あのときこうすればよかった」とか、脳内で反省したり妄想したりするのは、楽しいものだ。
そんな一人反省会をしていると、次にその相手にあった時に、もっとやさしくできる。ような気がする。何の関心もないより、ずっといい。
みんなに、少しずつ、関心を持つこと。
片思いは博愛でもある。
自由、平等、博愛。
なんだか革命のようになってきた。名付けて、片思い革命。
フランスでは、革命のあと、ロマン派の時代がやってきた。
頭の中であっても、複数人なんて、不純だ。一途に、一人だけを思い続けるのが、純粋な恋だ。ロマン派の詩人なら、そう思うかもしれない。
でも、トマトが好きな人が、「自分はトマトが好きなのだから、毎日トマトだけを食べ続けるべきだ」と考えるとしたら、不純だと思うだろうか?
人生を損している、と思うだけだろう。
それに、不健康でもある。
19世紀に一世を風靡したロマン派の詩人は、みな死んでしまった。栄養不足だったのかもしれない。
まあ、トマトは確かに美味しい。最高の食材、といっても過言ではない。
人生で二度と、トマトのような存在にはめぐりあえないかもしれない。
トマトに惚れ込む人がいても、その気持ちはわかる。
でも、タマネギだって、私は好きだ。
「僕なんかは、トマトさんのような華やかな魅力のない、目立たない引き立て役に過ぎませんけど」とタマネギが謙遜する。「でも僕には、僕にしかできない特技があります」
「特技?」とトマトが聞き返す。
「僕は、炒めつけられれば炒めつけられるほど、コクを出せるんです。僕は、引き立て役のプロなんです」
「メイラード反応のことね。いわれてみると、トマトのあたしには特技とかないかも。あるのはせいぜいリコピンだけ」
「それできれいな赤い色してるんですよね。憧れます。お肌もみずみずしいですし」
「あたし、90%が水なんだって。水太りかな、恥ずかしい」
「いえ、ピチピチしてて素敵です。僕もトマトさんみたいになりたかった。でも、トマトさんの持ち味にコクをつけてあげられるだけで、満足です」
「タマネギ... いつもありがとう。あたしの、ダシに、なってくれる?」
「トマトさんのためなら...」涙が出る、タマネギを包丁で切ると。「僕はみじん切りにだって喜んでなります」
刻みニンニク「こんにちは」
ニンニク、タマネギ、トマト。華麗な組み合わせだ。カレーにも合う。
トマトだけ考えればいいというものではないのだ。組み合わせがあることで、トマトの魅力がいっそう引き出される。
アボカド、トマト、レモン。
ナス、トマト、チーズ。
トマトの交際範囲は、広い。トマトは交際相手ごとに、別の顔を見せる。
主役にも脇役にもなれる。甘くも酸っぱくもなる。
トマトだけ食べていても、トマトを知ったとはいえない。
真にトマトを愛するのならば、トマト以外も愛せなければならない。
「でもやっぱり、わたしは抵抗あるな」という人もいるだろう。「1対1でない片思いって、たとえば、彼氏とか夫が他の女の子に関心を持つってことでしょ? そんなの考えるだけでも嫌だし、気持ち悪い」
その気持ちも、よく理解できる。子を産む母となりうる女性にとって、父親の協力を長期にわたって頼れるかは、死活問題だ。女性には、男性が他の女性に関心を向けるかどうかを、敏感に察知して忌避するシステムが、本能的に組み込まれている。
自由や博愛なんて、本能という台風に消し飛ぶ蝋燭の炎にすぎない。束縛と独占こそが、種の保存のために必要な条件だ。
体だけでなく、心まで、独占すべきだ。
自分の独占欲のために、相手の自由は侵害されなければならない。
「国王の裁判などする必要はない。ただ殺すべきものだ」と、サン=ジュストはルイ16世の裁判で処女演説を行った。
男性の勝手な思いなど、聞いてあげる必要はない。ただ殺すべきものだ。存在自体が罪だ。
性的な部分は、許容できなくて当然だ。例外はあるにせよ。
では性的な部分とはなにか。相手と性的に関わろうとする欲求のことだ。
この欲求を捨てたときに何が起こるか。
相手と関わろうとしないこと。自分の心の中だけに留めておこうとすること。
その状態がつまり、片思いだ。
親や子、兄弟、友人、同僚、取引先。生活の中で出会う人、関わる人に配慮し、相手のこと、相手の役に立つことを考える。
そこには男性も女性もない。自己を無にした思いは、性を超越する。
そんなことを言ってみたところで、安心が得られるかはわからないが。
理論的には、まあ、そのようなものだ、と思う。
とはいえ、人生がいつも理論通りに進むとは限らない。
大学生のころ、長いこと、片思いをしていた。
同時並行なんて、器用なことはできなかった。その人に会った後では、他の人が目に入らなくなった。
自己を無にもできなかった。相手と関係を深めたい気持ちが出てきて、その気持ちを殺すのに苦しんだ。
でも私には手の届かない人だった。
片思いなんて、好きではなかった! ただ当惑するばかりで、恥ずかしかった...。
私にとっては、片思いというのは、相手が魅力的だからするものではない。
相手が自分に優しくしてくれるから、人間として接してくれるから、気持ちが芽生えるのだ。餌をくれる人に尻尾を振ってなつく犬と、大差ない。
他の人が目に入らなくなったというのは、そんなふうに優しくしてくれる人がいないことに気づいた、というだけにすぎない。軽薄な人間関係しかなかったわけだ。
アルバイト先のバーで知り合った、受付の女性だった。Sさんといった。(以下敬称略)
受付は離れた場所にあったので、仕事中はSとあまり話すことはなかった。たまに、休憩時間が重なったとき、休憩室でおしゃべりするくらいだった。
目を引く美人だった。芸能人かと思った。自分とは縁がないな、と思った。雲の上の人に見えた。
年齢も4歳年上だった。自分が子供に思えた。
Sとは、仕事のあと帰る方向が同じだった。
偶然帰宅時間が重なると、途中まで地下鉄2駅分、一緒に帰った。
しだいに、そんな偶然が起こるのを楽しみにするようになった。
休憩室に貼ってあるシフト表を見て、Sの出勤日を確認した。
ある日、夜の11時半に仕事が終わって、一緒に帰るとき、Sが「これから、遊びに行かない?」と誘ってくれた。
Sは青山のクラブ(ディスコテック)が好きだった。看板もない店だった。ネットもない時代、どうやって知るのか、人がたくさん集まっていた。有名な人がDJをしていた。こんな世界があるのかと思って、びっくりした。
朝まで過ごした。
自分の知らない世界を教えてくれる異性というのは、蠱惑的なものだ。
バーでは、S以外の従業員は、すべて男性だった。
私以外はみな、女性経験が豊富だった。詐欺師でありサイコパスであるような人もいた。
みんな、Sには丁寧に接していたし、Sもよく笑っていた。
でもSは、誰にも心を開いていないように見えた。
遊びに行くのは私だけだった。
私だけが、Sの好きな世界、住んでいる世界を、理解できた。絵画や音楽など、芸術の話をよくした。
Sが私を特別扱いしてくれていると錯覚して、Sに夢中になっていった。
まあ、Sは確かに魅力的だった。それまで出会った中で、最高の女性、といっても過言ではなかった。(単に出会いが少なかっただけでもある)
感性が鋭敏で、独特な世界観をもっていた。空気が違っていた。
人生で二度と、Sのような存在にはめぐりあえない、と思った。
Sに惚れ込む人は多かったと思う。その気持ちはわかる。
Sと遊びに行く時、地下鉄で隣の席に座るだけでときめいた。
見知らぬ人に毎日している日常の行為でさえ、相手がSであるというだけで特別な意味を持った。
その気持ちを、そのまま言葉にして伝えることは、大事なことだ。でも当時はできなかった。
人からの好意は、どんな人からのものであっても嬉しいものだということ、見返りを求めないものである限り一切迷惑にはならないということを、今の私は知っている。当時は、知らなかった。
Sは、何人か自分の友達にも、私を紹介してくれた。女性だけでなく、男性もいた。男の友達が気安くSに話しかけるのを見ると、嫉妬した。
Sの交際範囲は、私より広かった(私が狭かっただけだが)。交際相手ごとに、別の顔を見せた。甘くも酸っぱくもなった。
しかしながら、Sとの仲は、それ以上発展しなかった。
いつまでたっても距離は縮まらなかった。
バーの先輩が、私がなぜSとつきあわないのか、と不思議そうに聞いた。
いや、私なんかは、Sのような華やかな魅力のない、目立たない引き立て役に過ぎなかった!
私は、自分が子供だから、男性扱いされないのだ...と思った。
Sが私にとって魅力的な女性であったように、私もSにとって魅力的な男性になりたかった。
Sが私に知らない世界を教えてくれたように、私もSに知らない世界を教えてあげられる人になりたかった。
成長したい、と思った。
自分なりに努力した。
努力と成長を促すところが、片思いの利点だ。
私は、自分の思いが実らないことを知っていて、あきらめていた。
でもその思いを無駄に廃棄するのは、もったいなかった。
成長の原動力として、エネルギーを再利用したかった。
燃焼熱を回収して再利用することを、サーマルリサイクルという。
熱には、恋の燃焼熱も含まれる。
好きな人と、すぐ交際できた幸福な人は、そんな気持ちが理解できないだろう。
相手のレベルに必死になって追いつきたいという強烈なエネルギーは、片思いならではのものだ。
好きな人と、交際できないというのは、幸運な経験なのかもしれない。
幸福と幸運とは一致しない。むしろ逆だ。不幸こそが幸運の鍵だ。
バーに、もう一人女性が入ってきた。Tといった。Sと同年齢だった。Tは、すぐにSの友達になった。
TはSと違って受付ではなく、私と同じフロアで働いていた。
Tは、小説を書いていた。よく、文学の話をした。
ある日、Tが私に「デートしようよ」と言った。
お客さんが入る前とはいえ、勤務時間中にそんな誘いを受ける機会は滅多にない。
「はい、かしこまりました」と、マニュアル通りに答えた。
銀座でデートした。
Sへの片思いは、やはり、苦しかった。
相手が自分を好きになるというのは、自分を心から受け入れ、認めてくれる、ということだ。
好きな人に認められない自分を、自分で認めることができなかった。
自分が成長すれば状況が変わるという見込みもなかった。
Sに告白する男性は多かったが、Sはすべて断っていた。
Sは、男性との交際自体を拒否していた。
独身で生きる覚悟を決めていた。
私の努力など、何の意味もなかった。
そのときの経験があって、片思いに苦しむ人の気持ちを、よく理解できる。
人間として受け入れ、認めるということと、その人を唯一の排他的な交際相手として選択する、というのは、別のことだ。
しかし、交際を拒否された方は、人間としての存在全体を否定されたように感じてしまうことがある。
男女交際は一人としかできないから、拒否するのは何の問題もない。
でも、人間として受け入れるのは、相手の告白と何の関係もなく継続できるようでありたい。
人間として受け入れるぶんには、同時並行的に、何人を受け入れても、なんら問題がない。
そこを区別できるのが、大人だと思う。
大人というのは、配慮できる人のことだ。
Sは、そこまで大人ではなかった。
私よりは余程大人だったが、それでもまだ若かったのだ。
そのおかげで、私は苦しみを味わうことができた。
タマネギは、炒めつけられると、コクが出る。
片思いの最大の利点は、人の心の痛みがわかる人になることだ。
そんなとき、Tと会うのは癒しになった。
Tは自分から誘ってきたのだから、私を好きなのだ、と錯覚した。
女性のほうからデートを申し込んでくれたのだから、男性のほうから正式な交際を申し込まなければならない、と勝手に思いこんだ。
Sとは直接交際できなくても、友達ではいたかった。バイトを辞めた後で関係が消えるのはさびしかった。Tと交際していれば、交際相手の友達として、関係が維持できるのではないかと思った。
それで、Tと夜お酒を飲みに行ったとき、交際を申し込んでみた。その場で振られた。
自分の勝手な思いなど、聞いてあげる必要はない。ただ殺すべきものだ。存在自体が罪だ。
その夜遅く、Sから電話があった。「Tから、話を聞いたよ」といって、なぐさめてくれた。
私は、自信を失っていた。自分の考えがすべて浅はかで愚かに思えた。恥ずかしかった。Sとうまく話せなくなった。
若いうちは、経験が足りないから、誤った考えを持つものだけれども、それを恥ずかしがる必要はない。
間違った考えを持つことが愚かなのではない、間違った考えを恥ずかしがって隠そうとするのが愚かなのだ。
隠すことで、助言を受ける機会を失う。
それに、恥ずかしい間違いを話すことで、親しくなることがある。黒歴史として封印すると、そんな機会も失う。
Tに限らず、いろいろな出会いがあったが、どの人にも真剣になれず、うまくいかなかった。
心の片隅には、いつもSがいた。あきらめきれていなかった。
完全に振られたあと、妻に出会った。
Sに出会えていなかったら、妻にも出会えていなかった。感謝している。
Sを通して、いろいろなことを学んだ。
Sがいなかったら、私はもっと高慢な人になっていたかもしれない。
自己努力を、それほどしなかったかもしれない。
人の心の痛みを、それほどわからなかったかもしれない。
片思いを通して、私はやさしい人になれた。
生活の中で出会う人、関わる人に配慮し、相手のこと、相手の役に立つことを考えられるようになった。
みんなに、少しずつ、関心を持てるようになった。
バラにはバラの、アジサイにはアジサイの、スミレにはスミレの良さがあるのだ。
私は、そんなささやかな片思いが好きだ。
仕事で「何を」するかは顧客が決めるが、「いかに」するかは自分が決める
学生の進路相談に乗るとき、心苦しいときがある。
どんな業界があるか、どんな会社に入ると苦労するか、日本への留学のメリットは何か、そんなことを話すことはできる。
楽をして生きたいとか、お金を稼ぎたいとか、目標の決まっている学生にとっては、それで十分だ。
でも、それだけでは足りないことがある。
そもそも、人生で何をするべきなのか。
安定した給料のいい仕事をして、できるだけ苦労のない生活をして、いい人に出会って結婚し、子供を産み育てる。
それが、大概の親が子供に望む、幸福な人生への最短距離だろう。
けれども、人間は、幸福になるために、生きているのか。
自分が幸せになりたいと思うこと、それは畢竟、私利私欲だ。
幸福という私利私欲を満たすこと、それが、人生で目指すべきことなのか。
その自問にためらいなくYesと言える人は、根本的な進路の悩みを持たない。
条件のよい仕事を探して、就職するだけだ。
しかしYesと言えない人、そしてそれに代わる「人生で目指すべきこと」が見つからない人は、進路に悩む。
10人に一人くらいは、そんな学生がいる。
Xは、そんな学生のひとりだった。
最初の授業のときのXを、よく覚えている。教室の最前列の、右隅に、ひとりで座っていた。
好奇心に満ちた丸い目がきらきらした、純真な子だった。天使のようだった。
時々、学生から
「先生は、わたしたち女子学生のうち、誰が一番可愛いと思いますか」
そんな質問を受けることがある。
どの人も、それぞれ可愛いですよ、と答える。
それは事実だ。だが、体よく逃げられたと思って、質問した学生は不満げに頬を膨らませる。
でももうひとつの事実がある。頭の中では、大学で見てきた数百人の学生のうち、可愛い子と言われると真っ先にXの面影が思い浮かぶ。(※個人の感想です)
通常、可愛い子は、男子からも女子からも人気があるので、自然とクラスの中心になる。
隅にひとりで座っているのは、非常に珍しい。
右隅というのは、休憩時間に私が座って休む席の目の前だった。軽く雑談をした。
授業が終わって、帰るときは、教師にとってさびしい瞬間のひとつだ。
学生たちは、友達同士、楽しそうに帰っていく。
教師はそんな学生たちを見送ったあと、静かになった教室に残って、黒板をふいて、ひとりで帰る。
そんなとき、Xが
「先生、一緒に帰りましょう」
と言ってくれて、寮までの道を歩くひとときが好きだった。学生寮と教師寮はすぐ近くだった。
私が学生のときは、先生がさびしいかもしれないと配慮したことはなかった。
もう一度学生になったら、Xのような学生になりたいと思った。
Xが、私の家に遊びに来てくれる約束をした。
「先生、マンゴーが好きですか? 買っていきます」
(中国ではマンゴーが安くて美味しい)
約束の日の数日前のことだった。授業の後、Xと一緒に帰るとき、他の学生Nとも一緒になって、3人で帰った。
Nとも、遊びに来てくれる約束が別途あって、Nが「今度先生の家に行くときのことですけど...」と、そのことに触れた。
家に着いたあと、Xから音声メッセージが届いていた。
「先生、わたしはどうして、先生の家に最初に行く学生ではないですか? いや、いや、いやです」
うーん、可愛すぎる。思い出してもニヤニヤしてしまう。
結局、最初に家に遊びに来てくれたのは、やはりXだった。
中国では、春にナズナ(薺菜)を摘んで食べる。スープに入れたり、餃子に入れたりする。Xがそんな話をしてくれた。
日本でナズナを食べたことがないというと、休みの日に、ナズナを摘んで教師寮まで持ってきてくれた。
そんなことがあって、妻もXを可愛がるようになった。
お姉さんが大好きです、とXは妻に言った。
「先生とお姉さんは、わたしの理想です」ともよく言っていた。「でもわたしは、そうなれるかどうか、わかりません」
家が貧しい、と聞いた。
「クラスのみんなは、コンピュータを持ってます。コンピュータがないのは、わたしと、もう一人だけです」
だいぶ後になって、妻が韓国に戻って、私が月に一度中国から韓国に往復するようになったとき、妻はXを韓国に呼びたい、と言った。
Xが一生を左右する重要な時期、進路のことで悩んでいて、リフレッシュが必要だと思ったからだった。
飛行機代などお金は全部私たちが出すので、私が韓国に行くときに一緒に行きませんか、と誘った。
Xはものすごく興奮して、飛び上がらんばかりに喜んでくれた。
しかし、Xにとって人生初の海外旅行は、実現できなかった。
パスポートが取得できなかったのだ。
日本では国民なら誰でもパスポートをとれる。中国では違う、ということを、私は初めて知った。
パスポートをとるには、本人または親の不動産、職業、収入など、一定の経済的・社会的条件を満たさなければならない。
Xの家では、無理だった。
私は学生のとき、よくアルバイトをして、海外旅行に出かけた。
でも中国では、一生海外に行けない人も多い。
私は自分の経験を話すことにためらいを感じることもあった。
けれども、Xは喜んで興味深そうに耳を傾けてくれた。
「わたしも、いつかそんな経験ができるかな」と、遠い目をした。
会話の授業で、スピーチの時間があった。
テーマは自由だったが、ほとんどの学生は、友達や家族の話、趣味の話をした。
Xのスピーチは、独特だった。
「その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。
その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。
その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。」
『論語』『孟子』『中庸』と並んで「四書」と呼ばれる儒教の経典に、『大学』がある。曽子という、孔子晩年の弟子が書いた。
これは『大学』の考えの根幹をなす一節だ。
「だから、<修身>が一番大事だと思います」と、Xはスピーチした。
日本でも、戦前は小学校に「修身」という道徳の授業があり、この一節は馴染み深いものだったようだ。
でも私のいたのは青島だった。青島は、山東省にある。山東省は、孔子の生まれた場所だ。
そんな儒教の本場で、いまも学生は修身を学んでいるのか。
新鮮な驚きだった。
人生で目指すべきことは、幸福なのか。
そんな問いに、いまでは、山東省の学生たちも、ほとんどがYesと答える。
けれども、少なくとも曽子は、そう考えなかった。
心を正しくし、身を修めること。つまり、行いを清くし、徳の高い人間になること。
日本語なら、一言で言える。やさしい人間になること。
それが人生で目指すべきことだ、と曽子は述べた。
そう思う人は、自己中心的な現代社会には馴染めず、進路に悩みやすい。
三島由紀夫も、そんなことを言っていた。
戦後になって、豊かになったけれども、思想という、人間の核をなすものが失われてしまった、と。
資本主義の基底にある自由市場経済では、各人が自分の利益だけ考えて行動すれば、全体が最適化される。
だから自己中心的であることは、自由市場において正しい。
みんな私利私欲を求めるようになった。お金を稼ぐ人がうらやましがられるようになった。
思想など、必要がなくなった。市場の需要だけを見ればよくなった。
それで、全体としては社会が豊かになっていった。
でもやはり、それだけだと、虚しさを感じる人もいるのだ。
Xが4年生になる前の夏休みのことだった。
学生は、基本的に、夏休みの間は学生寮に住めない。みな、故郷に帰っていく。
「わたしは、帰る家がありません」とXが言った。
「父も母も、それぞれ別の街に、出稼ぎにいって、故郷の家には誰もいません。ひとりで住むのは、こわいです」
妻が心配して、「うちに来る?」と言った。
もちろん、学生が教師の家に住むのは、現実的ではない。
Xは、家族に相談してなんとかしますと言って、帰っていった。
4年生になって、Xは進路のことで悩むようになった。
「ウルムチに行こうかな」と言うこともあった。「どこか、遠いところに行きたい」
最後の授業の作文で、Xは村上春樹の『ノルウェイの森』について書いた。
『ノルウェイの森』では、ワタナベ、直子、緑、永沢など、何組かのセックスと愛が語られる。
でも主題は性愛ではない、とXは論じた。登場人物たち誰もが、この世界に馴染めず、孤独を抱え、もがきながら生きている。
広大な世界のなかで、個人は風に吹かれる塵芥にすぎない。性愛は、その虚しさからの一時的な逃避に過ぎない、と。
Xらしい、と思った。同時に、「セックス」という表現に、ドキッとした。
村上春樹自身も、かつてそんなことを語っていた。
精神的な喪失感が、現代社会の特徴だ、と。
それに適合できず、漠然とした虚しさを抱える人がいる。
自分の書く物語は、癒しの物語なのだ、と。
国民の大多数が農家だった時代なら、そんな悩みはなかった。
食べていくために、食べ物をつくらなければならない。
それが仕事であれば、その必要性は疑う余地がない。
生きていくために必要なことをし、必要なものを作るのが仕事だった時代だ。
けれども豊穣の時代では、生きていくために必要なものは、既に潤沢に存在している。
99%の仕事は、これまで存在しなかった仕事、これまでなくても問題なかった仕事、生きていくために必要ではない仕事だ。
こんな仕事を、する必要があるのだろうか、と悩む。
もともと必要ではないのだから、必要性を感じられない。当たり前のことだ。
生きがいや、働きがいを、必要性に求める必要はないのだ。
現代は自由の時代だ。自分が価値あると思うこと、生活を豊かにしてくれると思うことを、自由に追求してよい。
けれども、ほとんどの人は、仕事は自由ではない、と考えている。
「言われたことをするのが仕事だ」と考えている。
自由に自分のしたいことができるのは、YouTuber、歌手や芸能人、漫画家や作家、サッカーなどスポーツ選手、等々、恵まれた特定の職業に就いた人だけだ、と考えている。(いま出した例が適切かはわからないが)
「したいこと」というのを、職業か何かだと、つまり「何をするか」なのだと、思っているわけだ。
実際には、どんな職業でも、「何をするか」において、自由はない。
仕事をするというのは、市場の中で需要に応じて労働を提供することだ。
何をするかは、顧客が決める。
顧客が求めるものを提供しなければ、仕事として成立しない。
言われたことをするのが仕事だ、という考えは、「何をするか」という点では、完全に正しい。
しかし、もう一度、胸に手を当てて、考えてみてほしい。
人生で目指すべきことは、何なのか。
やさしい人間になることだ、と私は強調したい。
心を正しくし、行いを清くし、徳の高い人間になること。
やさしい人間とは、人を幸せにする人間のことだ。
それは、顧客が求めるものでもある。
顧客が求めているのは、究極的には、自分が幸せになることだからだ。
ではどうすれば人を幸せにできるのか。
人に、人間として接すること。
人が困っているとき、あるいはしたいことがあるときに、それを自分の問題のように考え、共感すること。
そんな人の状況に耳を傾け、理解し、それを解決してあげようと努力すること。
その解決のために必要な勉強をし、専門技術を習得すること。
それが仕事の本質だ。
これらがすべて、「何を」ではなく「いかに」であることが、わかるだろうか。
中国にいたときの「仕事は何ですか」と聞かれれば、日本語教師だ、と答える。
日本語の授業をすること、そして学生の日本語能力を向上させること。
それが顧客である採用担当者や学生から要求されること、「言われたこと」だ。
でも私は内心では、日本語の授業をすることだけが仕事だとは考えていない。
それは表面的な形式に過ぎない。
日本語をともに学びながら、学ぶことの楽しさを共有すること。
ほめたり励ましたりして、自信が持てるようにしてあげること。
話し相手が必要な人がいたら、話し相手になってあげること。
私を必要としない人だったら、そっとしておいてあげること。
道に迷っている人がいたら、共に道を探してあげること。
二度とこない貴重な学生時代の、思い出を作る手助けをすること。
ときには友達のように、ときには親のように、そばで見守ること。
誰かの安心できる人に、信頼できる人に、尊敬できる人になること。
それが、私の考える私の仕事だ。
「どんな仕事をしてますか」と聞かれれば、「教師です」「エンジニアです」「遊んでます」と答える。
「人を喜ばせる仕事をしています」とは答えない。頭のおかしな人だと思われてしまう。
でも、内心では、そう思っている。頭がおかしいのだろう。
人を幸せにすること、それが私の仕事だ。私の生きる道でもある。
この地球に生まれ、暫くのあいだ生き、そして死んでいく。
この仮りそめの人生のなかでしてみたいこと、それは一言で言えば、この世とこの世に生きる人の愛し方を学ぶことだ、と考えている。
そしてそんな仕事をするには、もはや形式は重要ではない。
日本語教師である必要はない。
どんな仕事を通してであれ、人を幸せにすることができる。
生きていれば、何かを、しなければならない。でも、何をするかは、重要ではない。
「何を言うか」よりも「いかに言ってあげるか」で、「何をするか」よりも「いかにしてあげるか」で、人は喜んだり悲しんだりする。
「何を」よりも、「いかに」が遥かに重要なのだ。
「何を」は物質に、「いかに」は精神に属する。
そして、いかなる仕事でも、「何を」は自由ではないが、「いかに」は完全に自由だ。
言われたことをするのが、仕事なのではない。
言われたことを「いかに」するのかが、仕事なのだ。
仕事に限らず、人生におけるすべてのことは、「何を」ではなく「いかに」に、本質がある。
人生で起こることとは、すべてが人間関係の上に起こることだからだ。
安定した給料のいい仕事をして、できるだけ苦労のない生活をして、いい人に出会って結婚し、子供を産み育てる。
そんなことが人生なのではない。
いかに仕事をするか。いかに生活をするか。いかに結婚するか。いかに子供を育てるか。
いかに生きるか。
どこに誰として生まれるか、どの仕事に就くか、誰に出会うかは、世界があなたに与えるものだ。
「何を」は、努力もあるが運次第であり、自由ではない。
けれども、「いかに」について、世界は何一つあなたに与えてくれない。
「いかに」を、誰もあなたに命令することができない。
あなたが自分自身で考え、自分で作り出し、自分で実行しなければならない。
それが自分の人生を生きるということだ。
自分の人生をいかに生きるかは、完全に自分の自由なのだ。
人生は本質的に創造的なものなのだ。
そしてそれが不器用なものであれ、拙いものであれ、失敗に満ちたものであれ、誰もあなたを咎めたりしない。
「いかに」の部分において、誰にもあなたを批判する権利はない。
人はみな、人生の初心者だ。
挑戦の多い人ほど、失敗も多い。失敗が多いことは、誇っていい。
けれども、挑戦しなくても良い。
失敗を避けて、慎重に生きてきたのだとしたら、それも誇っていい。
人生は自由なのだ。
自分が価値あると思うこと、生活を豊かにしてくれると思うことを、自由に追求してよいのだ。
Xは、卒業後、教育関係の会社に就職した。
そして、ウルムチではないが、実家から遠く離れたところに行った。
大学時代の彼氏とは別れていて、別の男性に出会って、一緒に暮らしていた。
しかしやはり、現代社会に馴染めず、もがきながら生きているようだった。
「わたしは、自分の理想をまだ見出せていません」とXがメッセージを送ってくれた。
「自分がまだ幼稚な子供だと思います。恥ずかしいです」
「転職して新しい職場に入ってまだ半年なので、そんなに悩むことはないと思いますよ」と、私はありきたりな返事を送った。「最初は仕事を覚えるだけで大変なはずです。何年か経験を積めば、見えてくるものがあって、自分なりの仕事のしかたができるようになります。それまで、ゆっくり成長を楽しめばよいと思います。成長しようと焦ることはありません。人生が自然と成長させてくれます」
でもそんな返事を書いても、Xの悩みに応えきれた気がしなかった。
Xの送ってくれたメッセージに、正面からちゃんと答えたい、と思った。
この文章を、Xに、そしてひとりのXであるようなすべての人に、捧げたい。
自分が自分でしかなく他の誰かには一生なれないこと
中国で、日本語教師をしていたことがある。
赴任してみると、予想もしていなかった問題が次々に起きて、悪戦苦闘の毎日だった。
最初の頃、壁にぶちあたるたびに、中国に来たことを後悔した。
そんな最初の二週間が過ぎて、大学2年の学生たちが歓迎会を開いてくれた。
日本語を学ぶ学生たちにとって、教師は唯一の直接話せるネイティブスピーカーだ。
できるだけ多くの学生に会話の機会を与えたくて、席を何度か移動した。
その席で、隣に座った女子学生Yと一緒に写真を撮った。
それほど明るくない店内で、顔が明るく映った。その写真を見て、Yが
「先生、お化粧してる...?」
と聞いた。
中国では、当時メンズメイクする人はいなかった。私はBBクリームを塗っているだけだったが、それでもメイクの話をするのは相手がどう思うかわからなくて、ごまかした。
でもそんな心配をする必要はなかった。Yは、その後、私の目をまっすぐ見て、
「私、先生が、好きになりました」
と言った。
ドキッとした。
そんな気持ちを素直に伝えられる勇気を、見習いたいと思った。
その後また二週間くらい過ぎて、歓迎会のクラスの何人かと、遠足に行った。
4月の初旬で、桜が咲き始める時期だった。青島で桜の名所といえば、中山公園だ。
余談だが、中国には各地に中山公園がある。中山というのは、孫中山、つまり孫文のことだ。孫文が日本に留学中、近所の表札に見かけた中山という姓を気に入って、中山と名乗るようになった。中国の中心となる山になりたい、と思ったかどうか。
一緒に行った数名のなかには、Yもいて、私の妻もいた。
中山公園を出たとき、妻が、他の学生から
「Yさんは、先生のことが好きなんです」
と聞いた、と私に伝えた。そして続けて、
「Yさんの話し相手になってあげて」
と言った。
でもYは、恥ずかしそうにしていて、話があまり続かなかった。
いまなら、そんなときにどんな話をすればいいのかがわかる。そのときは、まだわからなかった。
桜をみると、刷り込まれたように「あはれ」を感じる。
桜は、「咲く」から、「さくら」なのだ。しかしやはり、桜は散るものだ。
日本人だな、と思う。
中国や韓国でも桜は爛漫と咲き、静かに散っていく。
その物言わぬ姿を見て、中国人や韓国人も、日本人と同じことを感じるのだろうか。
そんなことを聞いて、その答えがYesであってもNoであっても、同じかどうかわからない。
実は日本人同士でも、同じかどうかわからないのだ。
一片の 落花見送る 静かかな(虚子)
フランス文学科の遠い先輩である批評家の小林秀雄は、かつてこんなことを書いていた。
世の中は、劇場なのだ、と。それを客席から見て、云々するのが批評かもしれない。でもその壇上にあがって劇の一員として参加してみなければ、本質はわからない。参加の体験、それが人生なのだ。そしてそこで感じるもの、その抑え難い感情、それが「あはれ」なのだ、と。
思うに、「あはれ」とは、限界の認識に伴う感情なのだ。
自分が自分であって他の誰かではないこと、世界がこの世界であって他の世界ではないこと、今が今であって他のいつかではないこと。
なりたくても一生なれない自分の夢の姿があり、行きたくても一生行けない場所があり、会いたくても一生会えない人がいること。
桜は散るものであって、咲き続けることはできないこと。
好きな人がいても、ずっと隣にいることはできないこと。
いま、好きな人と一緒にいて、どれだけ幸せでも、その瞬間瞬間は過ぎ去っていくものであること。
過ぎ去って、留めておくことができないこと。
留めておくことができないのを、どうすることもできないこと。
そんな限界を認識して、受け入れること。
教師をしている間、いろいろな学生に出会い、食事に行き、遊びに行った。
しかし、Yから誘われることはなかった。
忘れたのだろう、と思った。
学生が、私のことを忘れていくことは、喜ばしいことだ。
たいていの場合、それは彼氏ができたとか、勉強その他で、充実した毎日を送っていることを意味する。
私は教師として、来るものは決して拒まないが、去るものを追うことはできない。
出会いがあれば、別れがあることを、受け入れなければならない。
未来が、可能性に満ち溢れていて、なんでも可能だと思うとき、人は「あはれ」を感じない。
子供のときは、そんな状態だろう。
それでも、いつか死という限界が訪れる。
自分の限界を受け入れること、それを「覚悟」と、ハイデガーは『存在と時間』のなかで表現した。その覚悟の上に生きるとき、人の生が実存的なものになる。
しかし、限界とは、いつか来る未来の死だけではない。
人間は、過去を変えることができない。過去とは、死の蓄積だ。人間は、一瞬一瞬死にゆく存在なのだ。
そして一瞬前までの過去の延長として存在する現在も、実は変えることができない。
ハイデガーが日本人であれば、「覚悟」をしたときに感ずる感情を、「あはれ」と表現したに違いない。
理系は、法則を扱う。法則は、反復可能性の上に存在する。
ニュートンの力学の法則は、『Philosophiae Naturalis Principia Mathematica(自然哲学の数学的諸原理)』を著した1687年当初も、今も、未来も、いつでも成立する。
実験をして再現できなければ、どれほど高名な説であっても棄却される。逆にいえば、実験をすればいつでも再現できるということだ。
法則は、時間を超越する。
しかし文系は、一度限りの現象を扱う。歴史も、事件も、人も、再現することができない、一度限りの現象である。
歴史のうちに法則めいたものを発見することがあっても、一度限りの法則に過ぎない。実験して再現することはできない。歴史に限らず、社会、文化、文学、経済、立法、すべてが、人間世界というこの一度限りの現象を扱うものだ。
一度限りのものであるから、そこには重みが生ずる。
極論を言えば、文系の分野は何であれ、その本質には常に「あはれ」が存在する。
なお、語中の「は」は、現在は「wa」と発音する。今では「あわれ(哀れ、憐れ)」という言葉になっている。
しかし過去には「ha」であり、さらに昔は「pa」と発音していた。
「あはれ」の昔の発音は「apare」、この名残として残っている「あっぱれ(天晴れ)」という言葉は、昔は「あはれ」と同一の言葉であった。
「あわれ」と「あっぱれ」の語源が同じ、というのは、「あはれ」の意味を探る手がかりになるだろう。
人間は、自分でしかありえない。
ある境遇に生まれついた運命も、その後に選択してきた人生も、その人を形作ると同時に、その人であること以外のすべての選択肢を諦めることを、強いる。
ある人が、その人でしかありえないということは、本質的に「かなしい」ことである。そのかなしさは、「あわれ」である。
一方、自分であることを受け入れ、覚悟をした人が、劇の壇上で精一杯自分という役を演じ切ることがある。そんな姿を見るとき、そこで感じるもの、それが「あっぱれ」である。
「あはれ」とは、限界の認識に伴う感情なのだ。
2年生だった学生たちが、2年過ぎて、卒業を迎える時期が来た。
私はその前に日本語教師を辞めていたが、再び青島を訪ねた。
そのとき、ある学生から、Yの話を聞いた。
「同級生と別れることよりも、先生に会えなくなることが、一番さびしい」
とYが泣いていた、とのことだった。
忘れたと思っていたのは、誤解だった。
2年間も、一途に、思いを秘めていたのだった。
私は本当に驚いた。
「あっぱれ」であった。
最終日に、Yと山に登った。
中国の大学は、日本の大学と違って、キャンパスが広大だ。中で4万人が住んでいる、ちょっとした街のようだ。キャンパスの中に、池があり、林があり、小さいながらも山があった。
山を降りて、校門に向かいながら、思い出話をした。
Yは私とのことを克明に覚えていた。
私のほうが思い出せないことがことがあると、
「先生は、もう忘れてしまいました」
と口を尖らせて、私を叱った。
校門について、別れるとき、Yが言った。
「您可以抱抱我吗(抱きしめてくれますか)」
抱擁すると、Yが泣き出した。
私も、涙が出た。
「あはれ」は、マルティン・ブーバーの『我と汝』にもつながる。
ブーバーは、すべての人間関係は「私とあなた」と「私とそれ」の2種類に分けられる、と論じた。
相手を自分の行為の対象物として捉えるとき、それを「私とそれ」の関係、と呼ぶ。
ビジネス上の交渉相手であれば、「私とそれ」の関係である。
自分にとって有利な商談ができれば、成功である。
それが相手にとって不利なものであっても、かなしむ人は少ない。
一方、相手が自分と同じように人格をもったひとりの人間だと認識するとき、相手もまた行為の主体であると捉えるとき、それを「私とあなた」の関係、と呼ぶ。
仲の良い家族であれば、相手が困っているとき、自分の困りごととして一緒に考え、身を切って助けようとするだろう。
他者に「あはれ」を感じるのは、「私とあなた」の関係のときである。
桜に「あはれ」を感じるのは、桜が精一杯咲き、散っていく姿が自分のことであるように感ずるからだ。
Yに「あはれ」を感じるのは、Yの姿が自分のことであるように感ずるからだ。
もちろん、私にはYへの恋愛感情はない。私の気持ちとYの気持ちは、重さが全然違うだろう。
けれども、それほど違いがあるのだろうか、とも思う。
私にとって、私を大事にしてくれる人は誰もが大切な存在だ。
私にしてあげられることは、本当に少ない。でも、気にはかけている。
Yが私の隣にいられないとき、私もYの隣にいてあげられない。
Yが自分の境遇を受け入れているように、私もまた自分の境遇を受け入れている。
同じ、ではないだろうか。
学生だけに限らない。
私は人間であり、桜とは違うが、桜をよくよく見ていると、自分と桜と、それほど大きな違いはないのではないか、とも感じる。
そんなとき、自分は桜との間になる距離がなくなって、一体化したような気分を感じる。
自分は、自分でしかない。
けれども、そんなことはどうでもいいことなのかもしれない。
中国を離れて韓国に行き、大学の語学コースで今度は学生として韓国語を勉強しているとき、授業で思い出を話す機会があり、Yの思い出を話した。
教室が静まり返った。
そのクラスで仲の良かったJさんが、私の思い出話が一番面白かった、と言ってくれた。
思い出の醍醐味は、その記憶を思い出したり話したりすることが、またもうひとつの思い出になることかもしれない。
思い出の連鎖、とでもいおうか。
そんな語学コースの授業をきっかけにYのことを思い出し、連絡をとってみた。
Yは高校教師になっていた。
「先生からメッセージをもらって、すごく嬉しくて、他のことを全部無視してすぐ返事を書いてます」
とYからすぐ返信があった。
私も、その気持ちが、よくわかる。
大学のときに私が誤解していたことを、聞いてみた。
Yは、遊びに誘う勇気がなかった、残念だ、と答えてくれた。
Yとの思い出は、他の学生にくらべて、少ない。でも、印象的だった。
好きな人と、つき合う人とは、別の概念だ。
異性とつき合うのは、一人としかできないが、好きな人はたくさんいたほうがいい。
好きな人というのは、学ぶところのある人、でもあるからだ。
いろいろな人に出会って、いろいろなことを学んでいってほしい、と思っている。
私にできることは、そのいろいろな経験の森のうちの一本の木として、束の間、木陰を提供することだけだ。
「あはれ」を端的に表現した俳句に、こんなものがある。
蜘蛛に生まれ 網を張らねば ならぬかな(虚子)
人に生まれ、人として生きねばならない我々、我々でしかない我々は、弱く小さく、あわれな、かなしい存在である。
しかし、そんな存在でしかなく、そんな存在であること、それ以上の喜びを、私は知らない。
この世が生きるに値するか、という問い
大学生のとき、仲の良かった女の子がいた。以下Tとする。
Tは真面目な学生だった。授業では一番前に座っている私の隣に座っていた。
卒業旅行で行った温泉旅館の宴会場で、私たちの隣に座ってくれたN教授が、
「君たちは、いつもくっついている」
と言ったのを覚えている。N教授は「君たちは、つきあっているのか」と聞きたかったようだった。
Tが、ハッとした表情で口をつぐんだ。
言い淀んだ空気を察して、N教授は
「いつも一番前の席にいて、僕から距離が近いので、圧迫感を感じる」
と方向転換してくれた。
Tはホッとして笑顔に戻った。
(蛇足だが、こういうときに「ハッと」とか「ホッと」とハ行の音で表現するのは興味深い)
Tはそんなふうに、自信を持って最前列に座る優等生だった。
私たちの専攻はフランス文学で、そのN教授の授業でカミュを扱うことがあった。
授業で使っていた教科書は、カミュの作品の中では全く有名ではない『夏』という抒情的なエッセーで、哲学ではなくあくまで文学として扱うものだった(そしてそのような、俗世間から乖離した、時が止まったような授業が、女子学生には人気だった)が、その授業に触発されたのか、Tはカミュの『シーシュポスの神話』を読み始めたようだった。
「ねえ」とTが言った。
「『真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題だ』だって。どう思う?」
生きる価値があるのか、と問うことは、人間にとって自然なことだが、多少不幸なことでもある。
生きていて楽しくて幸せで満足している人間は、そんなことを問わないからだ。
ゲームをする子供が、「こんなゲームをする価値があるのか」と問うとしたら、それはつまりゲームが楽しくないから、価値が見出せないからだ。
生きる意味を見失う経験が、Tにはあったのだろう。
一般に、賢くて真面目な人は、そんな悩みを持つ。生きる意味を見失うというのは、理想と現実の乖離から起こるからだ。賢い人は、理想を思い描く。真面目な人は、その理想に従おうとして苦しむ。
私は、そんな人も好きだ。
まず、質問に答えるより、質問の背景になっている感情について聞いて、理解し、寄り添うべきだったと思う。
それに、そんな話を振ってくれたことは、有り難いことだ。年端のいかない学生たちの間で、いや中高年の社会人でさえ、そんなことを話題にしてくれる人は珍しい。
自分の人生を率直に見つめること、ましてそれを人に話すことは、勇気がいることだからだ。
そんなことが自然にできる人が、どれだけいるのだろう。
人生で、そんな質問を受ける機会は、そう多くない。
そのことに対する感謝を、言葉にして伝えるべきだった。
でも私はそのとき、Tにとって大事だったはずのその問題が、やや幼稚な問いであるように思えた。
私にとって、人生は生きるに値するものではなかった。
それは単に率直な事実であり前提であって、「その上でどう生きるか」だけが問題だった。
自分の人生が、「自分にとって」生きるに値しないものであるなら、他人のために生きていこうと思うのが、唯一の合理的な選択となる。
私は、人生に苦しんでいる人、「人生が生きるに値しない」ように思えている人のために、その人に寄り添って、少しでもその苦しみを軽減してあげられるような人になりたかった。
そしてそのような人生こそ、「生きるに値する」人生に思えた。
逆説的ながら、人生が生きるに値しないものであればこそ、それを変えようと努力する人生が、生きるに値するものとなるのだ。
Tもそんな、苦しみを軽減してあげたい人の一人だった。
Tがどんな悩みを持っているのか、よく知らなかったし、私も自分の悩みをTに話すことはなかったが、同級生の女子4人と食事に行ったとき、Tがとても寂しそうにしていたのを覚えている。
そのとき、他の女子が、Tの隣に座っている私に
「Tさんを抱きしめてあげなよ」
といった。それで初めて、抱擁をした。
しかし私はまだ相手の気持ちを汲み取るスキルが足りなかった。
人が相手にどこまで心を開けるかは、包容力が醸し出す雰囲気によって決まる。十年の経験が一瞬の空気を作る。私はまだ未熟だった。
ただ、私の見たところ、それほど苦しみは深くなさそうだった。なので、優先度は低かった。
人生は小説ではない。
小説では、主人公がそのままヒロインになるが、現実世界では、主人公以外にも数多くの人物が登場して、ヒロインの座を奪っていく。
私は別の人に出会い、結婚した。
大学を卒業して20年ほどした頃、Tに再会したことがあった。
結婚して子供を産んだのであれば、その人が人生を肯定できていることがわかる。
人生が苦行だと思っている人なら、その苦行である人生をわざわざもう一つ作ろうとはしないだろうからだ。
だが、Tはまだ独身だった。
Tの母親は、心配して、
「いい人がいればいいんですけどね... もしかして、独身ですか?」
と私に聞いた。既婚だと答えると残念そうにしていた。
年月を経て田舎教師になったTは、以前のような屈折もなさそうだったが、以前のような澄んだ怜悧さも失われていた。
蚊を一匹殺すのもためらっていた人が、肉食をするようになっていた。「給食があるから、菜食は無理なんだよね」と、少しバツが悪そうに、しかしそれほど良心の痛みを感じている風でもなく、言った。
私は、どうだったのだろう。
人間は、自殺をしながら生きていくのだ。
人生が生きるに値しないのならば、自殺するのが合理的な選択だ、とカミュは考えた。
だがそれは、首をくくるような「肉体の死」だけを意味するのではないだろう。
現実に迎合して、生きる意味を考えずに目の前のことを淡々とこなして生きていく「精神の死」を選ぶ人もいるだろう。
しかしそのように死んだと思っていた精神の骸に、光が差し、その骸を養分として新たな芽が芽吹くこともあるだろう。
生きる価値を、人間は創造することができる、と私は信じている。
この世が生きるに値するか、という問いに、いまのTは何と答えるだろう。